55歳 会社員 男性 あぶらすましさんの心霊体験
今年55歳になる会社員、男性です。
この55歳という年齢は、私の父が癌で他界したのも55歳だったため、すこしばかり感慨深いものがあります。
いつのまにか死んだ父の年齢に追いついてしまいましたが、昔のことなので父の印象もかなり記憶から薄れてしまいました。ただ、亡くなった日のことは鮮明に覚えています。
父の臨終に帰省して
当時20代半ばだった私は大学からそのまま大阪で就職し一人暮らしをしていました。
母親から入院中の父の様態が良くないとの連絡で実家の北九州市に到着したのは夕方のことです。
罰当たりなようですが、半年ぶりの帰省です。
父の癌は数年前から入院、退院を繰り返しつつも安定していたので最近はあまり心配していませんでした。ただ、数日前に大きな手術をして以降、体力的にかなり応えたようで急激に弱っていったそうです。
大阪から八幡の総合病院へ直接向かい、父と、傍らに座る母に会いました。父は体中に管がささっていました。状況が悪いのは聞くまでもありません。
母も憔悴しているようでした。
面会時間はとうに過ぎていましたが、そのまま泊まり込むことを医師から勧められています。つまりはそういうことです。
私も母も何をするでもなくパイプいすに座っていました。となりの空ベッドも少し離れにある休憩室も好きに使っていいとの話でしたが横になる気にはなりませんでした。
「ちょっとトイレに」
それだけ言って立ち上がりました。
トイレに誰かと一緒に行った気が
廊下を少し進んで清潔な広めのトイレに入りました。小用をすませ、手を洗う時鏡に映る自分を見て軽く混乱しました。
洗面所の大きな鏡は向かい合う私一人のみを映していました。
普通に考えたら当たり前なのですが、なぜか、病室から二人連れだったような勘違いをしていたのです。
「トイレに行ってくる」
そう言って、二人で病室を出て、要するに“連れしょん”です。なんでそんな勘違いをしたのでしょう。
あの時の感覚は今でもはっきり覚えていますが、どうにも夢うつつでぼんやりしていました。自分一人しかいない、考えるまでもなく、それが当たり前なのに、今一人しかいないことに違和感を感じ、霞がかかったような頭で混乱していたのです。
最初から誰もいないはずなのに、鏡を見て、自分一人しかいないことを認識すると
「今まで一緒に居た“誰か”はどこにいったんだろう」
そういった思いがいつまでも頭の中でぐるぐる回っていました。
父の死、もしかしたらあれは・・・
軽くめまいを感じながら病室に戻るのと、当直医が駆け込んで来るのとがほとんど同時でした。
母も真っ青な顔で為すすべなく立ったままです。
当直医はかなり長い時間心臓マッサージをがんばってくれましたが、その数時間後、葬儀の手配をすることとなりました。
この話はこれだけです。
恐怖体験というにはなんとも物足りないことでしょう。
そもそも私には恐怖体験という認識はありません。
ただ、あの時、洗面所の鏡を見てはっと我に返った時の不思議な感覚が今でも忘れられないのです。
まるで寝ぼけた子供のように。あれ、一緒にいた誰かはどこにいったんだろうと。
あれが、もし、私が病室を出たことで病床の父の魂のようなものだけが付いてきてしまったのだとしたら。私が父の寿命を短くしてしまったのだろうか。
そんなふうにも考えてしまいます。皆さんはどうですか。肉親の死に際して、似たような経験はありませんか。
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大叔父が亡くなる前日の夜、家の蛍光灯がパチパチっといい始めて、何度かついたり消えたりを繰り返し、蛍光灯が切れるのかなと思いました。
その翌日、大叔父は亡くなりました。
それ以降、蛍光灯はいつも通りちゃんとつくようになりました。
家族ではあの時の出来事は、大叔父が亡くなる前に会いに来たのでは?という話になっています。
あぶらすましさんの出来事も、きっとお父様が亡くなる直前にあぶらすましさんのそばにいたくて、一緒にいたのかもしれませんね。
父の寿命を短くたのではなく、むしろ逆だと思いますよ。自身の死を悟り、その死に際に、愛する親族を待ちわびる。死ぬ前に一目だけでもという思いは、その人をほんの少し生き永らえさせるには、十分な力だと思います。そして、魂で息子がやって来てくれたことを感じ取り、嬉しくてついトイレに一緒に行ったと、自分にはそういう風に感じました。魂は深いところで繋がっていますからね。
父の寿命を短くしてたのではなく、むしろ、逆じゃないでしょうか。死の間際、自身の死を悟り、愛するものを待ちわびる気持ちは、寿命をいささか伸ばすこともある様な気がします。お父さんは、息子に会えてほっとしたんじゃないですかね。だから、嬉しくてつい一緒に魂だけトイレに行ったと、私は読んでてそう感じました。
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