皆さんはじめまして。 これは、私が3年前まで中野坂上に住んでいた頃に体験したお話です。 今でも思い出すと動悸がしますし、正直、こうして文章にするのも少し勇気がいります。ですが、最近になってあの付近の物件を探しているという知人の話を聞き、注意喚起の意味も込めてこちらに投稿させていただくことにしました。
少し長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。
当時、私は新宿にあるIT系の企業に勤めていました。 残業が多く、終電を逃すことも珍しくなかったため、新宿から徒歩やタクシーですぐに帰れる中野坂上周辺で物件を探していたのです。
そこで見つけたのが、駅から徒歩5分ほどの場所にある、築30年ほどの鉄筋コンクリート造のマンションでした。 6畳のワンルームで、家賃は管理費込みで5万8千円。 周辺の相場から考えると、2万円近く安い計算になります。
内見の際、不動産屋さんは「オーナーさんが高齢で、早く空室を埋めたいそうなんです。事故物件といった事実は一切ありませんのでご安心ください」と丁寧に説明してくれました。 リフォームされたばかりの室内は、壁紙が真っ白で、古いマンション特有の嫌な臭いもありません。私はその場ですぐに契約を決めました。
引っ越しを終えた最初の夜のことです。 荷解きで疲れて泥のように眠っていた私は、深夜の2時過ぎに、ふと目が覚めました。
「……ピチャ……ピチャ……」
どこかで水が跳ねるような音が聞こえるのです。 最初はキッチンかお風呂場の蛇口を締め忘れたのかと思いましたが、確認してもどこも濡れてはいません。 音の発生源を探すと、どうやらベッドのすぐ横の「壁」から聞こえてくるようでした。
「上の階の人の排水の音かな」
その時はそう自分に言い聞かせ、耳栓をして無理やり眠りにつきました。 しかし、その音は毎晩、決まって午前2時になると始まりました。 しかも日が経つにつれ、音は「ピチャ」という水音から、もっと湿り気を帯びた「……ズリ……ズリ……」という何かが擦れるような音に変わっていったのです。
入居して一ヶ月が経つ頃、私は深刻な睡眠不足に陥っていました。 仕事中もボーッとしてしまうことが増え、ついにミスを連発してしまった私は、気分転換を兼ねて部屋の大掃除をすることにしたのです。
その際、ふとした拍子に部屋の寸法が気になりました。 私は趣味でインテリアを組むのが好きだったので、以前使っていたレーザー距離計を持っていたのです。 壁の端から端までを測ってみて、私は自分の目を疑いました。
「……おかしい」
不動産屋からもらった図面では、部屋の横幅は3,200mmあるはずでした。 しかし、実際に計測してみると2,750mmしかありません。 450mm、つまり45センチも部屋が狭いのです。
最初、私は自分の操作ミスかと思いましたが、何度測っても結果は同じです。 外側の共用廊下の長さと照らし合わせても、やはり私の部屋だけが、隣の部屋との間に「存在しないはずの45センチの空間」を抱えていることになります。
一度気になりだすと、もう止まりません。 私は夜中に聞こえる「ズリ……ズリ……」という音が、まさにその「存在しないはずの45センチの空間」から聞こえてきていることに確信を持ちました。
ある晩、私は意を決して、クローゼットの奥にある不自然に新しい壁紙を剥がしてみることにしたのです。 もし何かあれば、修繕費を払えばいい。その時は恐怖よりも好奇心が勝っていました。
カッターで慎重に切れ込みを入れ、壁紙をめくると、そこにはコンクリートではなく、古びたベニヤ板が打ち付けられていました。 その板には、小さな節穴のような穴が一つだけ開いていました。
私は冷や汗をかきながら、その穴にスマートフォンのライトを当て、中を覗き込みました。
そこにあったのは、ゴミの山でした。 いえ、ただのゴミではありません。 大量の、本当に大量の「使い古された古い靴」が、天井までぎっしりと詰め込まれていたのです。 泥がついたままのスニーカー、踵の取れたハイヒール、子供用の小さなサンダル。 それらが、まるで見えない重圧で押し潰されたように、隙間なく積み上げられていました。
そして、その靴の山の頂点に、誰かの「後ろ頭」が見えました。
私は悲鳴を上げ、その場にへたり込みました。 翌朝、私は震える手で管理会社ではなく、直接オーナー様の自宅へ向かいました。 中野坂上の古い一軒家に住む、非常に上品そうな老婦人でした。
私が壁の中のことを伝えると、彼女は少しだけ悲しそうな表情を浮かべ、お茶を淹れながらこう言いました。
「あら……あそこ、また隙間が開いてしまいましたか」
彼女の話によれば、中野坂上のあの場所は、昔から「行き場のないものが溜まる場所」なのだそうです。 あのマンションを建てた際、どうしても地鎮がうまくいかず、設計士の助言で「何かを供え続けるための隙間」を設けたのだと言いました。
「あの靴たちはね、道に迷った方たちが置いていかれたものなのですよ。貴方の部屋の壁が狭くなっていたのは、それだけ多くの方が、あそこを通っていかれたということですね」
彼女は微笑んでいましたが、その目は全く笑っていませんでした。 「通っていった」という言葉が、生きた人間を指しているのではないことは、彼女の口調からすぐに分かりました。
私はその日のうちにホテルへ避難し、二度とその部屋には戻りませんでした。 荷物は専門の業者に頼んで全て処分し、契約も即座に解除しました。 幸いなことに、オーナー様が「事情が事情ですから」と、違約金などは一切不問にしてくださいました。
今、私は別の街で静かに暮らしています。 ですが、時々ふと思うのです。 あの中野坂上のマンションで、今この瞬間も、真っ白な壁紙の向こう側で、誰かが脱ぎ捨てた靴の山が、少しずつ、少しずつ高くなっているのではないかと。
そして、もしあのまま私が住み続けていたら。 あの45センチの隙間が、いつか私の立っている場所まで侵食してきたのではないかと。
中野坂上の、特に坂の途中に建つ古い物件には気をつけてください。 もし内見の際に、図面よりも部屋が「狭い」と感じたら、そこには貴方ではない「誰か」のための通り道が用意されているのかもしれません。





