東京都目黒区、権之助坂。
目黒駅から山手通りに向かって下るこの長い坂道は、昼夜を問わず車の往来が激しく、ラーメン屋や古着屋、雑多な飲食店が軒を連ねる活気ある場所だ。しかし、一歩路地に入れば、古くからある寺社や鬱蒼とした緑地、そして昭和の時代から取り残されたような古い雑居ビルが、まるで時代の断層のように点在していることを知る人は少ない。
これは、私がフリーランスのグラフィックデザイナーとして独立したばかりの頃、その権之助坂の裏手にある、とある雑居ビルで体験した話である。今でも、階段の「踊り場」という空間に足を踏み入れるたび、あの時の湿った空気と、喉の奥からせり上がってくるような不快な動悸を思い出さずにはいられない。
季節は六月の半ば、梅雨の真っ只中だった。
その日、私は急な修正依頼を受け、クライアントのデザイン事務所へ直接データを届けに向かっていた。時刻は深夜一時を回っていたと思う。本来ならメールで済む案件だったが、サーバーの不調とかで大容量のデータが送れず、USBメモリを握りしめてタクシーに飛び乗ったのだ。
指定された住所は、権之助坂を下りきり、目黒川に架かる橋の手前を左に折れた先の、薄暗い路地の奥にあった。
「Kビル」
錆びついた真鍮のプレートにそう刻まれたそのビルは、五階建ての鉛筆のように細長い建物だった。外壁はくすんだ灰色で、雨に濡れて黒ずみ、所々に蔦が這っている。周囲には新しいマンションが建ち並んでいるため、そのビルだけが異様に古めかしく、まるでそこだけ時間が止まっているかのような圧迫感を放っていた。
「待たせてすみません」
私は心の中で詫びながら、重いガラス扉を押して中に入った。エントランスは狭く、カビと埃、そして古い紙のような匂いが混ざった独特の臭気が漂っていた。
目指す事務所は四階にある。私はエレベーターのボタンを押した。しかし、ボタンは点灯しなかった。よく見ると、「点検中」という手書きの貼り紙がガムテープで乱雑に貼られている。
「マジかよ……」
私は舌打ちを一つして、非常階段の鉄扉を開けた。
階段は建物の裏側に位置しており、外階段ではなく、コンクリートで囲まれた内階段だった。壁は塗装が剥がれ落ち、露出したコンクリート肌が湿気で濡れている。一段一段上るたびに、カツーン、カツーンという私の足音が反響し、それがやけに大きく聞こえるのが不気味だった。
二階、三階と上がり、息が切れ始めた頃だった。
三階と四階の間にある踊り場に差し掛かった時、ふと違和感を覚えた。
そこは、ただの踊り場だった。
一坪ほどの広さのコンクリートの床。壁には消火器が一つ。天井には蛍光灯が一本、チカチカと頼りなく明滅している。
しかし、何かがおかしい。
私は足を止めた。心臓の鼓動が早くなる。
(広い……?)
下の階の踊り場よりも、明らかにここだけ奥行きがあるように感じたのだ。いや、物理的な広さではない。空間の「深度」とでも言うべきか、その場所だけ空気が濃密で、奥へ奥へと吸い込まれるような感覚があった。
そして、もう一つ。
壁にあるはずのないものがあった。
「窓」だ。
このビルは隣の建物と密接して建っているため、階段側の壁には窓がないはずだった。一階から三階までの踊り場には確かに窓はなかった。しかし、この三・五階の踊り場にだけ、古びた擦りガラスの窓が嵌め込まれていたのだ。
私は恐怖よりも好奇心が勝り、その窓に近づいた。
外は深夜の雨だ。隣のビルの壁が見えるだけだろう。そう思いながら、何気なくガラスの表面に指を這わせた。
指先が触れた瞬間、ビクリと体が震えた。
ガラスが、熱かったのだ。
まるで真夏の直射日光を浴び続けていたかのように、じっとりと生温かい。外気は梅雨寒で冷え込んでいるはずなのに。
その時、窓の向こうで何かが動いた気がした。
擦りガラス越しに、黒い影がゆらりと横切る。隣のビルの住人か? いや、ここは階段の踊り場だ。隣接するビルとの隙間は数十センチしかないはずだ。人が通れるわけがない。
私は急に怖くなり、先を急ごうと階段に足をかけた。
四階へ。早くデータを渡して、このビルから出たい。
タッタッタッと駆け上がり、四階のフロアに出る鉄扉に手をかけた。
開かない。
鍵がかかっているわけではない。ノブは回るのだが、まるで向こう側から強烈な力で押さえつけられているかのように、びくともしないのだ。
「すみません! 開けてください!」
私は扉を叩きながら叫んだ。しかし、返事はない。鉄扉の厚みの向こうに、静寂が張り付いているようだった。
仕方なく、私は一度三階に降りてエレベーターホール側から回ろうと考えた。
踵を返し、再び階段を降りる。
数段降りて、私は凍りついた。
さっきの踊り場だ。
擦りガラスの窓、明滅する蛍光灯、隅に置かれた消火器。
私はそこを通り過ぎ、さらに下の階へ降りる階段へ向かった。
タッタッタッ。
数秒後、私はまた足を止めた。
目の前にあるのは、同じ踊り場だった。
窓、蛍光灯、消火器。
(……え?)
私は混乱した。三階に降りたつもりが、戻ってしまったのか?
いや、確かに階段を「降りた」はずだ。
私は手すりを掴み、下を覗き込もうとした。しかし、階段の螺旋の中央部は暗闇で、どこまで続いているのか見えない。
パニックになりかけた私は、今度は逆に駆け上がった。四階へ、いや、五階でも屋上でもいい。とにかくここから離れたい一心で、無我夢中で足を動かした。
ハァハァと荒い息を吐きながら階段を駆け上がり、踊り場に到達する。
そこには、あの窓があった。
チカ、チカ、と蛍光灯が私をあざ笑うように点滅している。
「嘘だろ……」
私は三階と四階の間の踊り場、通称「三・五階」に閉じ込められていた。上がっても下がっても、必ずこの場所に戻ってくる。まるでメビウスの輪だ。
携帯電話を取り出し、クライアントに電話をかけようとした。
『圏外』
画面の左上に表示された文字が、絶望を突きつける。都心のど真ん中で圏外なんてありえない。
その時だった。
背後の窓から、音がした。
コツ、コツ、コツ。
ガラスを爪で叩くような、硬質で乾いた音。
私は振り返りたくなかった。振り返れば、擦りガラスの向こうに「何か」がいることを認めてしまうことになる。
しかし、音は止まない。
コツ、コツ、コツ……ガリッ。
今度は爪を立てて引っ掻くような音に変わった。
そして、あの生温かい窓ガラスから、じわりと「水」が染み出し始めた。
最初は結露かと思った。だが、違う。
水は赤黒く、鉄錆のような、あるいは古くなった血のような色をしており、ガラスを透過してこちらの床へと滴り落ちてくるのだ。
ポタッ、ポタッ、ポタッ。
赤い雫がコンクリートの床を叩く音が、静寂な階段室に響き渡る。
それと同時に、強烈な腐臭が鼻をついた。ドブ川の底に溜まったヘドロと、生ゴミを煮詰めたような吐き気を催す臭い。
私は口元を押さえ、壁際に後ずさった。
「あけて……」
声が聞こえた。
耳元ではない。頭の中に直接響くような、湿り気を帯びた女性の声だった。
「あけて……ここ、あついの……」
窓ガラスが、内側から(いや、外側から?)ぐにゃりと歪んだ。
まるでゴムのようにガラスが盛り上がり、人の顔の形を成していく。
苦悶に満ちた表情。目があるべき場所は窪み、口は大きく裂けている。
その「顔」が、ガラスの膜を突き破ろうと、こちらへ押し寄せてくる。
「うわあああああ!」
私は叫び声を上げ、持っていたUSBメモリが入った鞄をその顔に向かって投げつけた。
鞄はガラスに当たった瞬間、バシャッという水音と共に、ガラスの中へと「吸い込まれて」消えた。ガラスが割れたのではない。水面に石を投げ入れたように、波紋を残して飲み込まれたのだ。
私は腰を抜かしそうになりながらも、這うようにして階段にしがみついた。
上がっても下がってもここに戻るなら、もう一度降りるしかない。
私は転がるように階段を駆け下りた。
踊り場が見えてくる。あの窓がある。あの顔が、さっきよりも鮮明に浮かび上がっている。
構わずに通り過ぎ、次の階段へ。
また踊り場。顔がさらに突き出している。
「あついよぉ、だしてよぉ」
声が大きくなる。
私は狂ったように階段を降り続けた。
何周しただろうか。十回、いや二十回か。
私の意識は朦朧とし、足の感覚がなくなってきた。
永遠に続く螺旋。終わらない悪夢。
このまま私は、このビルの循環器の一部として消化されてしまうのか。
その時、ふとクライアントの言葉を思い出した。
『あのビル、昔は病院だったらしいんだよね。地下に霊安室があったとかで』
打ち合わせの雑談で聞いた、真偽不明の噂話。
そして、目黒という土地の由来にまつわる話も脳裏をよぎった。諸説あるが、かつてこのあたりは起伏が激しく、水の流れが複雑で、水害や土砂崩れが多かった場所だという説。
水。
この階段を満たしつつある湿気。窓から染み出す赤い水。
ここは、「流れ」が淀んでしまった場所なのかもしれない。
本来流れるべきものが流れず、留まり続け、腐敗し、通りがかったものを引きずり込もうとする「淀み」。
「どいてくれ!」
私は誰に言うともなく叫んだ。
そして、次の踊り場に差し掛かった瞬間、私はある賭けに出た。
階段を降りる勢いのまま、踊り場の壁に向かって体当たりをしたのだ。
ループする空間の裂け目があるとしたら、視覚的に認識されている「通路」ではなく、意識の外にある「壁」ではないかという、根拠のない直感だった。
ドォン!
激しい衝撃が肩に走り、視界が白く飛んだ。
壁に激突した痛みで涙が滲む。
しかし、私は倒れ込んだ床の感触に違和感を覚えた。
コンクリートの冷たさではない。
ざらついた、薄いカーペットの感触。
「……さん? 佐藤さん!」
誰かが私を呼んでいる。
目を開けると、そこは薄暗い廊下だった。目の前には心配そうに私を覗き込むクライアントの顔があった。
「大丈夫ですか? 凄い音がしましたけど」
私は呆然と周囲を見渡した。
そこは四階の事務所前の廊下だった。
「あ、あれ……?」
「いやあ、遅いから心配してたんですよ。エレベーター点検中だったでしょう? 階段で四階まで上がるのキツイですよね」
クライアントは私の肩を支えて立たせてくれた。
私は恐る恐る、自分が今しがた出てきた非常階段の扉を見た。
鉄扉は半開きになっており、その奥には変哲もないコンクリートの階段が見える。
「あの、踊り場の……窓……」
「窓? 階段に窓なんてありませんよ。隣のビルとくっついてますから」
クライアントは不思議そうに首をかしげた。
私は自分の荷物がないことに気づいた。
「鞄……鞄を、落としたみたいで」
「え? どこに?」
「階段の……三階と四階の間に」
クライアントと一緒に階段へ戻った。
恐る恐る三・五階の踊り場に降りる。
そこには、何もなかった。
ただのコンクリートの壁。消火器。薄暗い蛍光灯。
窓など、最初から存在しなかったかのように、壁はのっぺりとしていた。
ただ、一つだけ奇妙なことがあった。
消火器が置かれた隅の床に、水溜まりができていたのだ。
天井からの雨漏りではない。そこだけ、床から滲み出したように、黒く湿っている。
そして、その水溜まりの中心に、私のUSBメモリだけがぽつんと落ちていた。
鞄はない。USBメモリだけが、まるで吐き出された異物のように転がっていたのだ。
「ありましたね。でも鞄は……?」
「いえ、データさえあればいいんです」
私は震える手でUSBメモリを拾い上げた。それは氷のように冷たく、そして微かに、腐った水の臭いが染み付いていた。
その後、私は急いで納品を済ませ、逃げるようにそのビルを後にした。
帰り道、権之助坂を下る途中、ふとビルを見上げた。
雨に煙るそのビルは、周囲の闇に溶け込むように佇んでいる。
四階と三階の間あたり。外壁のその部分をじっと見つめた。
もちろん窓はない。
だが、コンクリートの壁に、うっすらと黒い染みのようなものが広がっているのが見えた。
それは、まるで人が苦悶の表情を浮かべて押し付けられた顔のようにも、無数の手形が重なり合ったようにも見えた。
後日談がある。
その数ヶ月後、そのクライアントの事務所は別の場所へ移転した。
理由は聞かなかったが、移転の案内ハガキには「業務拡大のため」と書かれていた。
しかし、風の噂で聞いた話では、夜な夜なオフィスのどこからか、水が滴る音と、「あつい」と呟く女性の声が聞こえるようになり、スタッフが次々と体調を崩したのだという。
私は今でも、目黒へ行く用事があるときは、決して権之助坂の裏通りには入らないようにしている。
そして、古い雑居ビルの階段を使うときは、必ず踊り場を確認する癖がついてしまった。
もし、そこに本来あるはずのない「窓」があったら。
あるいは、壁からじっとりと汗のような湿気が滲み出していたら。
絶対に足を止めてはいけない。
そこは、この世とあの世の狭間にある「淀み」であり、一度囚われたら、二度とこちらの世界には戻れないかもしれないのだから。
あの夜、私が投げつけた鞄は、今もあの踊り場の裏側にある、終わらない時間のループの中を漂っているのだろうか。
時折、雨の降る深夜に一人で仕事をしていると、ふと背後から、コツ、コツ、と窓を叩く音が聞こえるような気がして、振り返れなくなることがある。
私の鞄を拾った「何か」が、中の名刺を見て、私の部屋まで届けに来たのではないかと、想像してしまうからだ。
目黒区権之助坂。
華やかな街の裏側に潜む、古びた階段の踊り場。
そこには、決して覗いてはいけない闇が、今も口を開けて誰かを待っている。





