これは、数年前、長崎県長崎市女の都町(めのとまち)で、実際にあった事故物件に引っ越してしまった男性の体験をもとにしたお話です。
私は、当時28歳。東京での仕事に疲れ、都会の喧騒から離れるようにして、ふとした縁で長崎県に移り住むことになりました。最初の職場は女の都町――どこか幻想的な名前に惹かれたのもありました。
女の都は、その名前とは裏腹に、山に囲まれた静かな住宅地です。朝夕は鳥のさえずりが聞こえ、夜には遠くから港の汽笛がかすかに響くような、そんな場所でした。
私が住むことになったアパートは、女の都団地から少し山を登ったところにある、築30年の木造2階建て。1Kで家賃は破格の2万円。しかも礼金も敷金もゼロ。都心では考えられない好条件でした。
不動産屋の若い男性は、鍵を渡すときに妙に歯切れが悪く、こう言いました。
「…あの、夜に変な音がしても気にしないでくださいね。山だから、動物の仕業だったりもしますし」
そのときは「まあ、虫とかタヌキだろう」と軽く流しました。
引っ越して最初の一週間は、驚くほど静かでした。夜は涼しい風が吹き抜け、久々にぐっすり眠れる日々が続きました。
ところが、二週目のある夜。日付が変わる少し前、床についた私の耳に、「…トン、トン」と、一定の間隔で何かを叩く音が聞こえてきたのです。
時計の秒針よりもやや遅いくらいのテンポ。最初は隣人の生活音かと思い気にも留めませんでしたが、数分後、それが天井から聞こえてくると気づき、背筋がゾワリとしました。
私の部屋は最上階の2階。上には誰もいないはずなのに、「トン、トン」という音は天井の一点から繰り返し鳴り続けていたのです。
その夜は怖くなり、テレビの音をつけたまま無理やり眠りにつきました。
翌朝、不動産屋に問い合わせると、彼はしばらく沈黙した後、ぽつりとこう言いました。
「…実は、その部屋、以前に住んでいた方が…中で、首を…」
言い淀んだ言葉の続きを、私は直感で察しました。
「首を吊ったんですか?」
彼は無言で頷きました。
「でも、死後数日経ってから発見されたので、正確には自殺か事故かも断定できないって…警察の報告ではそうなってます」
その日から、部屋に入るのが怖くなりました。特に夜。暗くなると決まって天井の一点から音が鳴る。しかも、それは日に日に激しさを増していったのです。
最初は「トン、トン」だったのが、「ドン、ドン」と重くなり、ある晩には、その音に合わせて押入れのふすまがガタッと動いたのです。
私は思わず部屋の電気を全部点け、声を上げてしまいました。
「やめてくれ!!」
その瞬間、全ての音がピタリと止まりました。
しかし、それで終わりではありませんでした。
その夜、夢を見ました。
私は自分の部屋の天井を見上げている。そして、そこには“誰か”がぶら下がっているのです。髪の長い女。顔は真っ青で、唇は紫に変色し、目は見開かれたまま――私をじっと見下ろしていました。
目が覚めると、部屋の空気が異様に重く感じられ、壁際には濡れたような手形がいくつもついていました。
窓も閉め切っていたはずなのに、です。
逃げるようにして実家に帰り、しばらく部屋に戻ることはありませんでした。
しかし、数週間後、荷物を整理するために昼間だけ戻ったとき、押入れの中から、妙なものが見つかりました。
それは、黄ばんだ封筒に入った古い手紙の束でした。
開くと、震えるような筆跡で、こんなことが書かれていました。
「帰ってきた。あの音がまた始まった」
「夜になると、天井を見てしまう。いるのがわかる」
「誰も信じてくれない。私はおかしくなんかない」
最後の手紙には、こう書かれていました。
「この部屋は、呼ぶ。誰かが来るまで、ずっと待っている」
それを読んだ私は、全身が凍りついたような感覚に襲われ、慌てて荷物をまとめて部屋を後にしました。
数ヶ月後、不動産屋に確認すると、私の後に入居した学生が一ヶ月も経たずに退去したそうです。理由は「原因不明の耳鳴りと視線を感じる」というものでした。
今でも、時々思い出します。
あの天井の一点、何があったのか、そしてあの音の正体は――
けれども、もう二度と確かめるつもりはありません。
女の都。その名の通り、あの部屋には「女」が今もいるのかもしれません。
そして、静かな山の住宅地のどこかで、今日もまた“誰か”が新しく引っ越してきているのかもしれません。
その天井を見上げるまでは、何も知らずに――