俺は30代半ばのバイク乗りで、普段は都内の配送業をして生計を立てている。平日は真面目に働いて、週末や長期休暇のたびにツーリングに出かける。行き先は、観光地よりもむしろ“曰く付き”の場所——つまり、心霊スポットだ。怖いもの見たさというより、「本当に何かあるのか?」を確かめたい性分で、これまでに全国の有名なトンネルや廃病院、廃墟などを巡ってきた。
そんな俺が今回目を付けたのが、北海道の常紋トンネルだった。
名前は前から知っていたが、あまりに有名すぎて避けていた場所だった。しかし、ふとネットで「常紋トンネル タコ部屋 人柱」といったワードを目にし、調べていくうちに、そこがただの心霊スポットではないと知った。
明治時代、過酷な強制労働に従事させられた労働者たちが、過労や虐待で命を落とし、時にはトンネルの壁に“塗り込められた”という噂がある。そして今なお、そこで働かされた人々の“叫び”が、トンネルの中から聞こえてくるという。
これは行くしかない。
そう思い立った俺は、連休を使って北海道に渡った。
生田原駅の静寂
石北本線の小さな駅、生田原(いくたはら)駅に到着したのは、まだ朝のうちだった。観光客らしい姿も少しはあったが、全体的に静まり返った雰囲気の町だった。
駅前の売店で水と軽食を買い、近くにいた中年の女性に「常紋トンネルの場所ってこのあたりですか?」と尋ねると、女性の顔色がサッと変わった。
「……あんた、何しに行くのさ」
「いや、ちょっと有名らしいんで。見に行くだけですよ」
「見に行くだけって……本気で行く気かい?あそこは、そういう軽い気持ちで行くと“連れてかれる”って言うよ……」
軽口のつもりだった俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。が、すぐに笑って「大丈夫です」と返してしまった。今思えば、あのときの表情がすべてを物語っていたのかもしれない。
国道242号と旧金華駅跡
生田原駅を出て、バイクで国道242号を北上する。空は青く澄み、空気もひんやりして気持ちがいい。だが、それとは裏腹に、道中の景色は次第に人の気配が消え、山が深くなっていく。
旧金華(かねはな)駅跡に到着したのは昼を少し過ぎたころ。駅はすでに廃止されていたが、建物もホームも残っていて、すぐ近くを走る石北本線のレールは今も現役で、たまに列車が通過するのが見える。
ここもまた静かだった。風の音と、草むらで何かが動く微かな物音だけ。ふと線路脇に立つ木の陰に、誰かが立っている気がしたが、目を凝らすと何もいなかった。
妙な胸騒ぎがして、自然とエンジンを再始動させた。
常紋トンネル工事殉職者追悼碑
常紋トンネルの近くにある高台には、労働中に命を落とした人々の慰霊のために建立された追悼碑がある。
バイクを停め、石段を登って碑の前に立つと、辺りは急に風が強まり、木々の枝がギシギシと軋んだ。碑の表面には、薄れかけた文字で“殉職者之碑”と刻まれていた。
手を合わせた瞬間、背中に“誰か”がピタリと張りついたような感覚が走る。冷たい息が首筋にかかり、すぐ後ろで「……ありがとう……」という声が聞こえたような気がした。
振り返っても、誰もいない。
俺は思わず背筋をさすり、急ぎ足でその場を後にした。
トンネル内での恐怖
そして、いよいよ常紋トンネルへと到着した。
現在も列車が運行しているため、トンネル内には入らず、入口付近で撮影するだけに留める予定だった。しかし、トンネルの前に立った瞬間、全身に重たい圧力のようなものを感じた。空気が、明らかに“生きていない”。
鉄柵の隙間からそっと中を覗くと、深い闇がどこまでも続いていた。ほんの少しだけ、足を踏み入れた——その瞬間だった。
俺のBluetoothインカムが、「ザーッ……」という異音を発し始めた。電波が入らないはずなのに、微かに“声”が混じっている。
「……出られない……出られない……代われ……」
耳元で複数の人間が同時に囁いているような、ぞっとする音だった。
背後から、ジャリ……ジャリ……と、靴音が近づいてくる。振り返ると誰もいない。だが、空間が“歪んで”いた。
その時だった。足元に“ゴトッ”と何かが落ちた。犬釘だった。赤黒く錆び、触れたくない何かを感じさせるそれには、爪で引っかいたような痕が無数に残っていた。
ふと顔を上げると、壁に何かが“浮かんで”いる。……それは、人の顔だった。目は虚ろで、皮膚は腐敗し、口だけが異常に大きく開いている。
動けない。体が、まるで見えない鎖で縛られているかのように硬直した。
「ここに埋まれ……代われ……お前の番だ……」
声が渦巻き、トンネルの奥から“這ってくる”音が聞こえてくる。
壁の一部が“崩れ”、泥だらけの手が何本も突き出され、俺の足を掴もうと伸びてくる。
我を忘れて叫びながらトンネルの外へ走り出た。後ろから、数人の足音が“確かに”ついてきた。
出口の光が見えた瞬間、すべての音がピタリと止んだ。
それから
バイクに跨った俺は、そのまま北見駅近くのビジネスホテルに直行し、一晩中震えていた。
あれ以来、何かが変わった気がする。
家に帰ってからも、夜中にふと目を覚ますと、部屋の隅に“作業着姿の男”が立っていることがある。スマホで録音したトンネル前の音声には、聞き覚えのない「……早く……こっちに来い……」という声が混じっていた。
俺は、もう二度と常紋トンネルには近づかない。
……ただ、時々夢の中で、あの暗闇に引きずり戻されそうになるのだ。