大学時代の友人である新井と森下、そして私の三人は、ある夏の終わりに小さな旅行を計画しておりました。目的は――「幽霊が出る宿」と噂されている山奥の古びた旅館に泊まること。
きっかけは、ネット掲示板に投稿された一つのスレッドでした。
《鳴らない風鈴の部屋、知ってる?泊まったら“迎え”が来るって言われてる》
最初は、都市伝説のひとつだと笑って読んでいたのですが、やがて“それ”が実在する旅館名や部屋番号と共に繰り返し語られていることに気づきました。
場所は山梨県某所。標高の高い山道を延々と車で登り、ようやく辿り着いたのが、その木造三階建ての古旅館でした。
「……まるで時間が止まってるみたいだな」
新井がそう言った通り、その旅館は静まり返っており、まるで生きた気配がありませんでした。けれど、受付にはしっかりと年配の女将が立っており、私たちが予約した302号室の鍵を手渡してくださいました。
「……三階、一番奥の部屋でございます。風がよく通りますから、涼しくお休みいただけますよ」
女将のその言葉には、どこか含みのある響きがありました。
窓の向こうの風鈴
部屋に入った途端、ひんやりとした空気に包まれました。夏とは思えないほど冷たく、湿った空気が、私たちを迎え入れました。
縁側の窓を開けると、確かに噂通り、古びた風鈴が一つ吊るされていました。
透明なガラスの球体。風受けには何の模様もなく、無垢なほどの白。
山の風が吹きつけるたび、隣の木々はざわめき、部屋の障子がかすかに揺れるのに、その風鈴だけは一度も音を立てませんでした。まるでそこだけ、風が避けて通っているような、空間が歪んでいるような奇妙さ。
「……なあ、これ、マジでおかしくねえか?」
新井が風鈴に手を伸ばしかけた瞬間、森下が制しました。
「やめろ。そういうの、触れないほうがいい」
彼は普段からオカルト好きではありましたが、このときばかりは本気で止めているように見えました。
夜、風が鳴く
夕食後、私たちは部屋に戻り、持ち込んだ酒を飲みながら談笑していました。
やがて深夜零時を過ぎた頃、森下がふと時計を見て口を開きました。
「……あと1時間で、“迎えの音”が鳴る時間帯だ」
彼の言う“迎えの音”とは、ネットで噂されていた――午前1時から3時の間、風鈴が鳴った者は二度と帰れない、という言い伝えのことでした。
それを聞いた新井は笑いながら、「よっしゃ、見張るか!」とソファに陣取り、窓のほうに身体を向けて座りました。
そのまま、私たちは半ばふざけた気持ちで夜を過ごし、次第にそれぞれ眠りについていきました。
そして、時計の針が午前2時を回った頃――
――チリン……。
かすかに、風鈴の音が鳴りました。
私は目を覚ましました。身体が冷たい汗で濡れており、部屋の中が異常なほど冷え込んでいるのを感じました。
視線を縁側に向けると、そこには“誰か”が立っていたのです。
その影は人のような形をしていましたが、首が妙に長く、両腕がだらりと垂れ下がり、身体全体がゆらゆらと揺れていました。髪は長く、顔は暗がりに隠れて見えません。
風鈴が、その顔のすぐそばで、かすかに揺れていたのです。
二度目の音
私は凍りついたように動けませんでした。
「夢だ。これは夢だ」
そう何度も心の中で唱えました。けれど、風鈴の音が再び鳴ったとき、私の耳元で誰かがこう囁いたのです。
「――三人、いたよね?」
私は叫び声を上げながら飛び起きました。新井と森下も同時に目を覚まし、部屋の異様な空気に気づいたようでした。
「おい……なんだよこれ、寒すぎる……!」
森下が言う通り、まるで冷蔵庫の中にいるような温度。そして――風鈴がないのです。あの縁側に、吊るされていたはずの風鈴が、まるで最初からなかったかのように消えていました。
私たちはすぐに荷物をまとめ、夜明け前の旅館を逃げるように後にしました。
あとをつけてくる“音”
帰路の車中、新井が後部座席で震えながら言いました。
「……誰かが、後ろから見てる気がする」
森下も言いました。
「ずっと、耳元で風鈴の音がしてる。鳴らないはずの、あの音が……」
私も、助手席でずっと頭の奥にチリ……チリ……という微かな音を感じ続けていました。
旅館を出てから一週間、私たち三人は連絡を取り合うたびに、同じことを口にしました。
「風鈴の音が、止まらない」
それは耳鳴りでも幻聴でもなく、確かに“誰か”が、そばで鳴らしている音。
そしてある夜、新井からの連絡が途絶えました。
彼の部屋を訪ねると、扉の前に――あの、ガラスの風鈴が吊るされていたのです。
音も立てずに、静かに、しかし確かにそこに“在る”風鈴。
終わらない迎え
あれ以来、私は風鈴のある場所を避けて生きています。
どこかの縁側に風鈴を見つけると、どうしても目を背けてしまいます。ガラスの風鈴、特に音が鳴らないそれを見ると、背筋が凍るのです。
“迎えの音”は、一度鳴ったら終わりではありません。
それは、あなたが帰った後も鳴り続け、やがて、あなたを迎えに来るのです。
もし、どこかで音のしない風鈴を見かけたなら、どうか、決して近づかないでください。
それは、迎えを待っているのですから――。