牛頸ダムは、福岡県大野城市にある静かなダムです。普段は釣りや散歩を楽しむ人々が訪れ、特に目立った異常もなく、自然豊かな景観に癒される場所。
しかし、地元の人々の間で語り継がれている噂話があります。それは、かつてここで一家心中が起きたのではないかという話です。
これが事実かどうかは分かりませんが、奇妙な出来事が時折報告されるこの場所には、何か見えない力が働いているのかもしれません。
牛頸ダムでの釣り計画
その日、私は大学時代の友人Aと一緒に、久しぶりに釣りをしに行くことにしました。Aとは昔からアウトドアが好きで、釣りは私たちの共通の趣味でした。彼とは特に仲が良く、休日になるとしばしば一緒に新しい釣りスポットを探すのが楽しみだったのです。
この日は、牛頸ダムを目指しました。ダムの周囲は緑に囲まれ、静けさと美しい風景が広がっていると評判でした。私たちは昼前に出発し、ドライブを楽しみながら現地に到着しました。駐車場には数台の車が停まっていて、他にも釣り人や家族連れがいることがわかりました。
奇妙な空気の変化
釣り道具を持って湖畔に降り立ち、穏やかな湖面を眺めていると、まるで日常の喧騒から解放されたかのような安らぎを感じました。しかし、それは長くは続きませんでした。昼を過ぎた頃から、空模様が急に怪しくなり始めました。風が強く吹き始め、空には暗い雲が立ち込め、まるで何か不吉なことが起こる前触れのような空気が漂っていたのです。
「そろそろ帰るか?」とAが言いましたが、私はもう少しだけ釣りを続けたいと思っていました。それでも、風が次第に強くなり、湖面が波打つ様子に不安を感じ始めました。そんな時、Aが突然、湖の対岸を指さして言いました。「あれ、見てみろよ…」
湖の対岸に立つ人影
その方向を見てみると、確かに一人の人影が見えました。遠くにいたので、何をしているのかははっきりとは分かりませんでしたが、その人はただじっと湖面を見つめているようでした。釣りをしているわけでもなく、何かを探しているようにも見えません。まるでそこに立ち尽くしているだけのようでした。
「誰だろうな…?」と私はつぶやきました。Aは気にせず「たぶん釣り人だろう」と言っていましたが、何かが引っかかるような違和感を感じました。その時、突然背後から女性の声が聞こえました。「助けて…」。私たちは驚き、周囲を見回しましたが、誰もいません。周囲には他の人もおらず、声の主がどこにいるのか全くわかりませんでした。
不気味な声と足のすくみ
その声は次第に大きくなり、「助けて…」と何度も繰り返されました。Aもその声を聞いていたようで、彼の顔には明らかな恐怖が浮かんでいました。「何だ、この声は?」とAが震えながら言いましたが、私も何も答えられませんでした。私たちはその場を離れようとしましたが、足がまるで地面に吸い付けられたように動かないのです。恐怖で体が硬直し、全身に冷たい汗が流れました。
声の主を探そうと振り返ったその瞬間、目の前に家族連れのような人々が現れました。彼らは私たちの目の前に立ち尽くし、無表情でじっとこちらを見つめていました。先ほどまで湖の対岸にいた人影が、まるで瞬間移動でもしたかのように目の前にいるのです。しかもその家族は四人で、手を繋ぎながらこちらを見つめていました。
家族の異様な姿
彼らの顔を見て、私は全身が凍りつきました。彼らの目は虚ろで、まるで生気を感じさせない表情でした。それどころか、まるで人形のように感情の欠片も見えない、冷たい雰囲気を放っていたのです。そして再び、先ほどの女性の声が聞こえてきました。「私たちを…置いていかないで…」。その声がどこから聞こえてくるのか分からず、まるで頭の中で直接響いているような感覚でした。恐怖に駆られた私たちは、何とかその場から逃げようとしましたが、足がすくんで動けません。
「早く…逃げよう」とAが言い、私は何とか勇気を振り絞って一歩を踏み出しました。しかし、その家族は私たちの動きをじっと見つめたまま、一歩も動かず、ただ立ち尽くしていました。
謎の消失とダムからの脱出
やっとの思いで足を動かし、Aと一緒に車に向かって全力で駆け出しました。私たちは無我夢中で車に飛び乗り、エンジンをかけてその場を離れました。振り返ると、先ほどの家族は消えていました。まるで幻だったかのように、彼らの姿は跡形もなく消え去っていたのです。車内は無言のまま、二人とも何が起きたのか理解できず、ただ恐怖だけが心に残りました。
一家心中の噂
その後、私はこの出来事を調べました。すると、牛頸ダムには一家心中の話が残っていることがわかりました。ある家族が、経済的に追い詰められ、ダムの近くで命を絶ったというものです。これが事実かどうかは分かりませんし、私たちが体験した現象と何か関係があるのかも定かではありません。しかし、あの日見た家族の姿と女性の声は、どうしてもその話と重なってしまうのです。
Aの異変とさらなる恐怖
その出来事以来、Aは何かに取り憑かれたかのように、次第に様子がおかしくなっていきました。以前のように外出することもなくなり、口数も少なくなりました。時折「またあの家族に会ったんだ…」と呟くようになり、次第に周囲の友人とも疎遠になっていきました。私は何とかAを元気づけようとしましたが、彼は次第に精神的に不安定になり、最後には連絡も取れなくなりました。
牛頸ダムには、今もあの家族の霊が彷徨っているのかもしれません。助けを求める声が、また誰かの耳に届く日はそう遠くないのかもしれない…。